ご無沙汰しております。富士登山では家族4人大変お世話になりまして、ありがとうございました。また、写真のCDRもお送りいただきまして、ありがとうございました。感謝の気持ちいっぱいですのに、今までお礼状も書かずにおり、申し訳ございません。
下山後、再び親は仕事、子らは学校と部活と土日はサッカーの日々に戻り、あわただしく暮らしております。でもやはり家族で顔を合わせると、。
「山頂はもう冬みたいかな。」とか、「富士山はもう山じまいだね。」など富士山に思いを馳せたり、8月中はしばしば「平野さんたちはまた富士山登ってるのかなあ。」とか、「片瀬さんはまたあのカレーを食べてるんだね。」など、お世話になった平野さん・片瀬さんを思い出す会話をしておりました。
もともと今回の富士登山はM(中2)が7月中旬にT中学の林間学校でお世話になったことが発端でした。
家に帰ってくるなり、「ホウエイカコウって知ってる?そこに登ったんだよ!」と興奮気味。
母「ホウエイカコウ?それ何?」という状態でした。さらにMは自分でパソコンでホールアースを検索し、富士登山があることを伝えてきました。
折りしもT市のS派遣中学生として学内選考をやっとの思いでくぐりぬけ学校代表に選ばれのも束の間、新型インフルエンザを危惧した市から派遣中止を伝えられた後でした。
海外など行ったことがなく、あこがれて挑戦し掴んだ初の機会の消滅にがっかりする娘に、どこか連れて行ってやろうか、この夏は家族で初の海外旅行に行ってみようかと、密かに考えていたところでした。
そこへ「お母さん、富士山に登りたい!!!」という熱心な娘の言葉、来年は中3で受験だから忙しくなるだろうから行くなら今年だ、と親も思いたちました。というわけで、わが家にとって初の海外旅行が富士登山にとって代わったのは、ただ1つ娘の林間学校での体験からきた熱意によるものでした。というわけで早速、満員になっていない日を申し込みましたが、ETC割引とお盆に帰省ラッシュが見事に重なる日程で、唯一の運転手で登山未経験者の夫は、登山は勿論、高速渋滞もと両方への不安から悲嘆にくれることになりました。と、ここまでが、富士登山をするにいたったT家の事情であります。以下、本題の感想文です。
「登山の申し込みをしてから、ホールアースから送られた事前資料を読み、リュック・衣類などの準備を家族4人分始めました。
大変参考になりました。
特に手袋は事前資料を参考にワークショップで1足400円くらいのを買いましたが、充分でした。(事前資料がなかったら高い物についてました。)
5合目から登り始めてしばらくは素敵な景色に驚嘆するばかりでしたが、7合目から7合目半までの間に肩のはり・コリを感じるようになり、深呼吸したり酸素缶の助けを借りました。7合目半から8合目まではひたすら前を歩く人の足元についていくようにして、なんとか8合目に到着。この頃には肩コリも感じなくなり、幸運にも天候に恵まれ、影富士、星空観望に大感激。9合目に向けて登り出すと、息子は続く眠気に負け、9合目山小屋に夫が付き添って留まることになりました。
残念ながらご来光は見られませんでしたが、下山途中の大砂走りも大変楽しく、噂の「ほうえいかこう」では景色の素晴らしさを堪能しました。同行のマッチョな彼女と彼、素敵なママと少年、いつも場を明るくなごませてくれた●●さん達など、ご一緒させていただいた皆様も懐かしいです。ありがとうございました。」
私にとって9合目から先は、30年以上前にマッチョな父がにガンガン登っていく際、手にぶらさげられながら登ったものの途中挫折、登山道脇で大量のゴミに囲まれハエを手ではらいながら山頂から降りてくる父の杖の先をを待ち続けた思い出の地、初めて登る領域でした。今や80を過ぎ、杖無しでは単独歩行もできずにいる父に話したら、しわだらけの顔をくしゃくしゃにして喜んでくれるだろうなあ、と実家の父の顔を思い浮かべながら登りました。
下山まで浅間神社付近で過ごした娘とのひととき、今思い出しても至福の時間でした。夫・息子も9合目からの下山をおかげさまで楽しめたそうで、心からありがたく思いました。
片瀬さん、星空観望と下山行程でお世話になりました。疲れた身体でも、大変楽しい下山をさせていただきました。
平野さん、私と娘が山頂まで行けたのは平野さんのおかげです。それだけでなく息子と夫の山小屋待機をお世話いただいたり、9合目からの素敵な下山コースを案内いただいたりと、ありがとうございました。
おかげさまで初めての家族登山が、楽しい楽しい心に残るものになりました。家族1人1人の人生にとって、海外旅行に行くよりももっともっとかけがえのない体験・思い出となりました。
その後の我が家です。今は子ども達も再びサッカー三昧ですが、今週末にはテレビでビデオに撮っていた田部井さんとルー大柴さんの富士登山の番組を家族そろって楽しみました。これも家族そろって共有の体験ができたゆえと思います。「母さんは来年も富士山に登るぞー。」と、まだ1年あるため強気な発言をする私、「日本一の山に登ったら、受験も日本一がんばれそうな気がする。」と、これも受験までまだ1年半もある為余裕の発言をするM、「もう1回登ったら今度は山頂まで行けると思う。」と、相変わらず酒を飲み続けている夫、「僕は虫捕りの方がいい。」とこれも相変わらず虫好きのK、はたして来年は家族の中の誰と誰が再び富士登山を果たすのだろうか、できればまた家族4人で挑戦したいなあ、とまた新たな家族の楽しみができました。4人共、富士山で再び平野さん、片瀬さんにお会いできる日を楽しみにしております。
おまけです。
今回の富士登山の報告会の最中、実家で私の母76歳のS県H女学校時代の富士登山の集合写真1枚が発掘されました。「日本が戦争に負けて食べるものもない時代、みんな芋しか食べられなかった時代に、母ちゃんに参加費頂戴、にぎり飯作ってって言いにくくてね。だって小さい頃草むしりの手伝いしたら富士山に連れて行ってやるって父ちゃんにいつも言われていつかは連れて行ってくれるんだろうって一生懸命手伝いするんだけど、父ちゃんいつになっても連れて行ってくれなくてね。そしたらある時、女学校の男の先生たちが言い出して、募集があったの。父ちゃんは若い頃、Hから富士山まで汽車代がかかるから自転車で行って登ったって言ってた。服の替えがいらないように上半身はだかで自転車をこいで富士山まで行ったって言ってたから、いつかは行きたかったんだよ。」そう語る母の当時の登山スタイルはセーラー服、一同皆です。こんな服で登ったの?山頂まで?と聞くと、「そう。だってちゃんとした服っていったらそれしかなかったもの。」誰が撮ったの?「先生方だって誰もカメラなんて持ってない時代だから、写真屋さんがいて撮ってもらったんじゃないかな。」 敗戦後わずか数年しかたっていない頃ですが晴れ晴れと美しい表情の女学生達と先生方に感動を覚えました。そんな実家に眠っていた我が家の富士登山の唯一の写真、物のない時代に引率して下さった男の先生方の熱意や親達以前の世代の人々のあこがれだった富士登山の写真、後世まで残ってくれればと後日コピーを郵送で送らせていただきます。ご笑納下されば幸いです。