小原賢二の
ライフストーリー

STORY01

安心できる居場所と、失う悲しさ

新潟市に生まれ、小さい頃から親に連れられて川で遊んだり、山に登ったり、海で釣りをしたり、ザリガニを捕まえたり、自然の中で遊ぶことが家の周りに当たり前にありました。
小学校の時に、夏休みの自由研究として裏の公園で蝶々を捕まえ、その羽を使って標本を作ったら、翌年から蝶々の数が激減していて、子どもながらに自然は無限ではなく有限なんだということを学んだと同時に、ものすごいショックを受けたのを覚えています。

子供の頃から、自転車でいろんなところに出かけるのが好きでした。
知らない場所に行ったり、面白いことを自分で発見することに楽しさを覚えていました。
自転車での遠出は、自分にとっては小さな冒険でしたが、その冒険や挑戦には、いつもそばに安心できる仲間がいました。高校2年生の時には、仲間と新潟から仙台まで自転車で行くことを企てました。ママチャリの仲間もいた為、往路であまりにも疲れ、復路はバスで帰ってきたのはかなりの敗北感でした。

自分の家の周りには、かつて田んぼがあり、自然も多く残っていましたが、自分が成長するに従い街の開発が進み、自分が高校生になった頃には家の周りが多数の大型チェーン店で溢れる場所になってしまいました。同じようなお店が、いくつも近くにあることに違和感を感じ、家の周りに安心できる場所がなくなっていることに気づきました。それと同時に、自然が自分自身に安心感を与えてくれていたことに、自然がなくなったことではじめて気づきました。

STORY02

つながるよろこび

大学に入り、伝記や旅行記、自己啓発本など、多様な本を読みながら社会問題に興味が出てきて、1人旅にはまり始めました。アルバイトをしながら、お金がたまって休みになったら、日本各地や海外を旅してその土地の風景やそこで暮らす人の写真を撮り歩くということをしていたら、いつの間にか大学3年生に。周りが就職活動で50社も100社も必死になり様々な業種の会社を受けていることに違和感を覚え、自分自身は自分が納得する答えにたどり着くまでは就職はしないと、謎の決意をして、引き続きアルバイトに明け暮れました。

在学中に出会った衝撃的な出来事で、他人に対してあまりにも無関心な社会に不信感を抱き始めたのがこの頃です。社会のことを斜めから見るようになっていた自分は、人を信じられずにいました。けれど、伝記の中に出てくるような偉人達は本当に素晴らしい人間であり、自分はまだそういった人と出会えていないだけなんだと思い、いろんな人と出会う歩き旅に出ることを決めました。

北海道の一番北の宗谷岬から歩き出し、歩いていける最南端の鹿児島の佐多岬を目指しました。3日目には体中が筋肉痛になり、そこで断念しそうになりましたが、なぜか挫けそうになった時には、必ず優しくしてくれる人が現れるのが不思議でした。

毎日、人からいただいた優しさをメモしていましたが、旅を続けるにつれ、メモがあまりにも大量になり、こんなことをすることにはなんの意味も無い、と言うことに気づきました。本当にたくさんの人と出会い、多くの人に支えられながら、なんとか鹿児島の佐多岬にたどり着きました。ゴール前日に出会ったおじさんとの出会いが、今でも忘れられません。

たった2日間ですが、たくさんの優しさをくれたおじさんに、別れ際に何度も何度も「ありがとう」と伝えた自分に、おじさんんはこう言いました。「今回の出会いで、もしも君が僕に対して少しでも恩を感じていたりしたら、君に余裕がある時でいいので、その気持ちを誰でもいいから困っている人に渡してあげてね。」、そして、おじさんは連絡先を教えてくれませんでした。最後に「だって、もしも僕のことを教えたら、君は僕に何かしらお礼をしようとするだろ、それじゃ意味がないよ」と。言っていました。

こうやって、世界は回っていくんだよな。こうやって回していかなければならないんだよな。と、強く強く今でも心の中に残っている出会いでした。歩き旅の中での出会いが、人とのつながりが、今の自分の価値観の多くを形成していった気がします。「出会いやつながりが、人を成長させる」それは、どんなに素晴らしい本や映画にも代えがたい、自分だけの「体験」から得られた「学び」でした。

STORY03

組織で働くこと

自分の初めての就職先は、地域活性とWEBのプロモーションを生業としている東京の会社でした。日本を旅している中で、人と人がつながることや、それぞれの土地とつながる文化や知恵のある生活にとても興味を持ちました。しかし、地域には人がいなくて、もう何年かするとあの田舎の風景も、もしかしたらなくなってしまうかもしれない、そんな現状をどうにかしたいと思い、地域活性の仕事を選びました。

本来は新潟に戻りたいと思っていたのですが、そのタイミングで新潟にやりたいと思える仕事や、ここで働きたいと思えるような企業がなかったので、東京で働くことを決めました。いつか実力をつけて新潟に戻ることを心の中で決意して。

4年ほど働く中で、九州から東北まで地方を飛び回り、毎日違う県で目覚めることもありました。そんな忙しく地方を飛び回りいろんな人と出会える仕事に楽しさも感じていたのですが、同時にどこか虚しさも感じていました。地域に行って出会う人達は、みんな活き活きとしているのに、自分自身は忙しい每日にどんどん疲弊してきて、なかなか結果の見えてこない仕事に少しづつ疲れていって、一体なぜこの仕事をやっているのかがわからなくなっていました。

いつの間にか、コンサルティングという全体を俯瞰してみる仕事よりも、もっともっと人の感動に直接関われるような仕事をしたい。人の心が震える現場に立ち会いたい。そして、自分自身が楽しく、そしてその土地に住む人や社会にとっても意味のある仕事がしたい。そう思うようになっていました。

昔から自然が好きだったこと、そして働きながら山岳会の立ち上げや、キャンプボランティアに関わっていたので、環境教育を中核に社会運動体として社会をよりよくしていこうとしているホールアース自然学校に就職することを選び、静岡での生活がスタートしました。いつかは地元の新潟に戻ることを夢見て。

STORY04

自然の持つ可能性と場の持つ可能性

自然学校での仕事は本当に每日が新鮮で楽しく、自然のことを伝える仕事にやりがいを感じていました。初めて出会う人、每日違う自然、そこで生まれる場。1つとして同じことはなく、每日新しい場を参加者と共に作ることに面白さを感じていました。

ホールアース自然学校としては、「人・自然・地域が共生する暮らし」を目指し、社会がよりよい方向に向かうように参加者の行動変容を促すことを、インタープリター(人と自然をつなぐ通訳者)の仕事として位置づけています。実際に、自分が関わり続けたことにより、価値観がかわり仕事を辞め、自分らしい生き方に歩みだす人も多く見てきました。自然の中には、人の心を震わせ、それにより行動が変わる確かな手応えがありました。

自分が東京で暮らしていた時にはあまり見なかったのですが、自然学校職員として働く日々の中で、自然の中では、多くの大人達がまるで子供のようにはしゃぐ姿をたくさん見ました。
時には大声で笑い、時には悲しみ、時には涙を流し。本当に豊かな表情を見せてくれました。自然の中では、人は年齢や立場、権威や肩書きを脱ぎ捨てて、1人の人間になることができるんだなぁと、自然の持つ安心感や、その場の持つ信頼感が持つ可能性を感じていました。

ただしそれと同時に、みんな普段は仕事をしながら、自分を押し殺していて、こういった場所でやっと自分らしい自分に戻れているのだ、ということにも気づきました。つまり、仕事は「我慢」、そしてプライベートの時間だけが「自分らしくいられる時間」なんだと。

仲間たちと飲み会にでもなれば、「うちの会社は・・・」とか、「上司が・・・」、「部下が・・・」といったネガティブな言葉を多く聞いていました。でも、それはなんか悲しいですよね。自分自身は仕事をしている時も楽しくて、もちろんプライベートな時間もとても楽しく過ごせていました。

きっと、もっと多くの人がそうなれるはず!!その為にはどうしたらいいんだろう!?そんなことを考えながら、自分らしくいられる居場所の必要性を強く抱くようになっていました。

自分らしくいられる居場所は、もしかしたら家庭がそうである人もいるかもしれませんし、仲間と過ごす時間がそうである人もいるかもしれません、そしてそんな居場所はどこにもない、という人もいるかもしれません。

每日の様に訪れる会社や学校が、安心感を抱けるような、自分らしくいられるような居場所だとしたら、どれだけ人生は素晴らしいのだろうか!?そして、組織をそんな安心感を抱くような居場所にできる可能性があるのは、自然の中なんじゃないかと思うようになりました。

今の社会は変化が早く、確実なものがない、不安が渦巻く場所です。だからこそ、安心感を抱くことのできる「居場所」が必要です。その為には、それぞれが自分らしくいられる安心の居場所を作り、安心を背景に自分なりの挑戦をして、体験から学びを得ることのできる企業研修は、今の時代に必要だと思い、「つなラボ」を立ち上げることを決めました。

自分の故郷新潟に、安心感を持てる居場所が増え、その安心感をもとに、自分らしい挑戦をし楽しくて多様な活動で溢れる新潟になることを目指して。